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徹底した利己主義を考える立場において、私は人自らを「私は神の子である」と想定した状態から物語を論じようとしている。
いわゆる利己主義者の根拠の1つに、「私だけが特別な存在である」という感覚が存在するが、それは他の人にこの主張を納得させにくくする原因となっている。
つまりその概念は他人にとって「私もまた特別な存在である」という同意を許さないのである。一般に主義は個人を取り替えても成り立つ普遍性の上に存在するが、この個人的利己主義においてそれは矛盾を生む。
利己主義ー特に個人的利己主義においてはー中心化された世界における神、自らの立場からしか論じる事は出来ない。それを基本前提として今日の話を進めて行きたい。
七夕という行事がある。古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。
そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
私が浴衣を着る事は、七夕に自らを同調させること、それは服従にも似た古来日本の習わしへの依存を示す。それは一意には「着たい」という利己的な意味を持つと同時に「着ていたい」という依存も同時に意味するのである。
このとき、妻が持つ「寝たい」という強い意志と、「遊びたい」という私の主義原理が真っ向からぶつかることになる。互いの相反する目論みの中、帰着点をどこに定めるか。ここで重要になるのは、「中心化された世界における存在の意義」である。
私という神の子にとって、世界は私に依拠した存在であるが同時に、妻ミイホンにとっても世界は神の周辺であり、ここに混じり合いつつも互いに決して同一化されない二つの世界が存在した。それは言うなれば砂鉄と砂のように、灰色に融合したかのようにみえて、その粒子達は決してその形を崩いてはいないのである。
磁石というアンカーがそれを明瞭に分け示すこともある。
「お面への執心」がこの場合それを明瞭化した。
秒単位での就寝欲求が、1人の女性を走らせたのである。これはお互いの世界の中心がそれぞれお互い自身であるという基準付けを果たした瞬間であり、この状態を「世界を中心化する」と定義する。
しかし、先ほども示したように、あくまで中心化された世界は素粒子のような存在であって、それは意識によって容易に相対化されうるのである。私という世界が「急ごう」とすることにより、再度の協力が可能となる。
その引力ー二つの世界をまた同じ空間に位置づけることができる引力ーは、もしかしたら形而上学的な何かによってもたらされるのかもしれない。私自身が神であり、妻が神である、それと同時に世界という名の高次の神が、それを許すのかもしれない。
今回のそれは、七夕であったのだ。
笑い声が聞こえた。
暗示的な、それは神が姿を変えて、私たちの前に現れたのだ。
私たちは生きている。
皮膚に囲われた、とてもせまい空間の中で、私という世界を囲うように。
しかし、そこにふと現れる神は、その境目の意義をすっと取り払ってくれる。
それは超自然的に、きっと、笑顔でー。
書いてて1つも意味が分かりませんでした。
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